リアル日記の書斎

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現役大学生からみる日本の学校が行うこどもを殺す”拘束的教育”

文部科学省が2020年の新学習指導要領より、ただでさえ長いと感じる授業時間が伸びることになった。小学校に至っては、年間35時間も長くなるという。学者時間と成績はほんとうに比例しているのか気になるところだ。

今回は”教育”のあり方について、現役大学生の目線から話していきたいと思う。

 

バイトという怪物

僕は未だにバイトをほとんどしたことがない。夏休みに昔通っていた公文で少し手伝いをしたくらいだ。その代わり、大学の奨励金という資格を取ったらお金を支給してくれる制度を利用している。そこそこの額が貰えるので、生活費で困ったことはない。しかし、同級生にバイト何してるの?と聞かれ「何もしてないよ」というと決まって驚かれる。奨励金について話しても、「バイトくらいしたほうがいいよー」と言われてしまう。それに対して、「じゃあ何でバイトをしてるの?」と聞くと「お金が欲しいから」と答える。続けて「何のために?」と聞くと、たいてい「わからない」「食費のため」などと返される。一人暮らしで、生活費を全て自分でまかなっているなら話は別だが、実家暮らしの人が食費のためにバイトしているのは正直理解できない。何の目的もなく、自分の時間を犠牲にしている人は結構いる。

”時間”はお金では買えない唯一のものと揶揄されるくらい、重要なものだ。成功者の書籍やインタビューには必ずといっていい程このワードかが出てくる。こういう人は決まって、何かに熱中している。周りが見えなくなるほど集中できるものがあれば時間を奪うバイトなんかとっくにやめているはずだ。逆説的に考えれば、今の学生は熱中できるものがないのだと考えられる。自分がやりたいことを一緒に探してくれることが真の”教育”ではないだろうか。時間と身体を奪うバイトいう化け物は、常識と化して僕らの周りに潜んでいる。この戦いに手助けしてくれる人は果たして現代にいるのだろうか。

 

奴隷化した先生

文部科学省が広める拘束的教育の厄介なところは身体を奪われることだ。これは先生にも同じことが言える。最近、授業をしている最中に愚痴をこぼす教授が増えてきた。教員になるためには教職課程と言われる卒業要件とは別に授業を受ける必要がある。しかし、これも普段の授業とはほとんど変わりない。ただ決められたカリキュラムこなす奴隷を再生産 しているにすぎないのだ。もし、このまま教育体制が変わらないのであれば学校はもはや必要とされなくなるだろう。最近はオンラインサロンというweb上でのコミュニティを、名のある人が開いている。本当に人生で学ぶべきものを得たいと思い出したら、バカ高い学費を出すよりこっちを取る人が増えてきても不思議ではない。学校は人間関係を学ぶ場でもあるが、時間を比較的自由に使えるサロンなら地元の友達と遊ぶ時間なんていくらでもあるし、コミュニティも増えてWIN-WINだ。

 

おわりに

日本の教育方法は、文化的・歴史的にも根が深くそう簡単に変わるものじゃない。どうにか現状を打開しようと模索していることは伝わるが、授業数を増やすことでこどもたちの将来がよくなるとはあまり思えない。身体じゃなく頭を使わせるような、もっと人間なところを育てていってほしい。時間は有限だ。